活動の歴史

 本法人は、昭和22年5月16日、戦争引揚者援護のための活動を行うための財団法人博友会として新宿区花園町に設立、厚生省(現厚生労働省社会・援護局総務課)より財団法人の認可を受けた。
 昭和35年に将来の日本社会における高齢社会を予見し、また、差別なき社会を構築するためにはボランティア活動が不可欠という理由から文京区江戸川橋に事務所を設け、厚生福祉新聞・旬刊大型「富士新報」を発行して新たな活動へ踏み出した。
 富士福祉事業団の初代理事長は枝見静樹、名誉会長に作家の武者小路実篤氏を迎え、顧問にはポーランド人修道士ゼノ・ゼブロフスキー氏が就任した。
浅草山谷地区での街に花を植える運動や子どもたちのための演劇上演(富士少年劇場)、灯の文庫による本の寄贈、貸し出しなどの活動を展開した。その活動の中で、後に富士福祉事業団のバックボーン的存在となるポーランド人ゼノ・ゼブロフスキー修道士との出会いがあった。
 障害者は収入が低く結婚するときもその費用負担が大変ということから、身体障害者に無料で婚礼衣装を貸し出す活動を行い、多くの障害者の晴れ姿を飾った。施設で働く職員の慰労のために日生劇場でのウェルフェアショーや箱根への一泊旅行へ招待する事業を毎年行い、この事業は10年間で約5000人の参加者を得た。
 また、共同募金会が行う赤い羽募金への協力もこの年から始まり、数多くのボランティアを動員して新宿駅前や伊勢丹デパート前にて募金活動を行った。現在は場所を現在の事務所の所在地である国分寺に移し、駅前にて募金活動を続けている。
 翌36年になるとボランティア活動に関するニュースなどを掲載していた「富士新報」紙上に、老人ホーム入所者が短歌や俳句を楽しめるように「富士文芸賞」を設けて一般社会と施設を結びつける一助を担った。
 創刊当初の「富士新報」は、制度が確立されていなかった重度身体障害児(者)の援助に対する問題を、ボランティア達の力によって運営されていた秋津療育園を題材にして中心的に訴えていた。その後も常に福祉の領域で最も重要と思われるテーマを常に取り上げ、広く世論を喚起しつづけた。
 36年には本事業団が主催で、「口と足で絵をかく世界美術展」を日本橋白木屋で開催した。これはリヒテンシュタインに本部をもつ「世界身体障害芸術家協会」の日本支部発足に合わせ行われたもので、名誉会長に武者小路実篤氏、会長に国家公安委員長安井謙氏を迎え、大変盛大に開催された。この年には夫婦がともに障害を持ち、自らも車椅子で生活をしている詩人、金子恵美子さんの詩集「半分づつの夫婦」を出版し、大きな話題となった。
 昭和40年には法人の名称を財団法人富士新報福祉事業団として厚生省より名称変更の認可を受け、名実共にボランティア活動推進のための公益法人に生まれ変わった。その後昭和47年に富士福祉事業団と名称を変え、現在に至っている。
 
国内最初の専門誌、月刊「ボランティア」創刊(昭和41年)

 昭和41年5月には全国で最初のボランティア活動専門誌、月刊「ボランティア」を日本自転車振興会の補助を得て発刊。ボランティア活動の情報がほとんど皆無の時代に全国的な情報源として、また先進的な事例を記事にすることによって指導書的な役割を果たした。平成20年度現在この月刊「ボランティア」は毎月7000部を発行し全国の関係機関などに配布している。時代の変化は著しく、情報化が進みインターネットなども普及しているが、ボランティア活動の本質を深く探求しつづける月刊「ボランティア」に対する期待は益々大きくなっている。
 
日本で最初の「正科ボランティアスクール」を開講(昭和42年)

 新聞や雑誌などの文字や映画やスライドなどの映像を通じてボランティア活動の大切さを訴えながら、一方では対面してボランティアを学ぶための学習の場の提供をはじめた。いくつかの地域で試験的に単発の学習会を開催したりしながら、ボランティアスクールの運営を研究し、1期3ヶ月毎週1回全12回の正科ボランティアスクールを開講した。
 このスクールでは、年齢の差別なく高校生から70歳を超える高齢者が一緒に学び、一方的に講義を聴くだけでなく、グループを結成して共同で作業をした。当番制でスクールの運営を経験するなど、当時としては大変ユニークな運営方法を編み出し、後に富士ビューロー方式といわれるボランティア学習の基本形を提案した。
 このスクールは毎週平日の夕方から夜にかけて開催されていたが、毎回定員の50名を大きく超える参加希望が集まり、半分近い方に次回へ回っていただいたことも何度もあった。このスクールは14年間27期まで続き、その後「ボランティア大学」へと姿を変えるが、修了生は3000名をこえ、全国の福祉の第一線で活躍している。
 
日本で最初のボランティア・ビューローの開設(昭和43年)

 昭和43年には、ボランティア活動の需給調整やボランティア活動入門のための相談、勉強会の企画などを行う富士ボランティア・ビューローを全国に先駆けて設置した。これは現在のボランティア・センターの原型をなすものであり、専門員が常駐し、電話や訪問を受けてボランティアの派遣や活動先の紹介などを行った。当時は全国的に相談機関がほとんどなかったことから、北海道や九州などからも相談やニーズが寄せられることもあった。
 また、同43年には、児童福祉法20周年を記念して、富士福祉事業団の日ごろの活動に対し厚生大臣より感謝状を贈呈された。
 昭和40年代前半には早くもメディアによる広報活動の手法を取り入れ、映画によるボランティア活動の啓蒙活動に着目し、16ミリ映画「育ちゆく芽」「15才から90才まで」等を製作した。また、オートスライドによるボランティア学習の教材、ボランティア活動基本3部作、「理念編」「活動編」「運動編」および「婦人編」「高校生編」の全5作を制作し普及した。
 さらに昭和45年には全国はじめてのボランティア活動の便利帳であり、年鑑である「福祉名鑑」(ボランティア便覧)を発行した。
 昭和46年にはボランティア・リーダーのためのグループワークセミナーや、レクレーションワーカースクールを開講した。また、この年は事業開始10周年を記念して、静岡県御殿場市にある冨士霊園内に「かぎりない愛・ゼノの記念碑」を建立する計画を発表した。石田博英労働大臣を発起人代表、美濃部亮吉東京都知事、久保勘一長崎県知事、坂井時忠兵庫県知事、宮沢弘広島県知事、灘尾弘吉全国社会福祉協議会会長・衆議院議員、松下幸之助松下電器(株)相談役などを発起人に迎え、約10年の歳月をかけたが、2000人以上の人々からの募金を得て、昭和54年に記念碑は完成した。
 昭和48年度より厚生省が運営要綱を定めた「奉仕銀行」に、翌昭和49年指定を受けたが、この「奉仕銀行」の内容は、本法人の事業内容とほとんど一致するものであり、本法人の実績がこの制度を生み出したといってもよいであろう。昭和50年度に「奉仕銀行運営事業」から「社会奉仕活動育成事業」となり、全国243箇所に[指導センター]が設置され、その運営費は厚生省において予算化されるにいたった。それにともない全社協の中央ボランティアセンター(現在の全国ボランティア活動振興センター)が発足し、社協系列のボランティア活動に関する主軸となることになった。
 一方これらの動きに呼応するかのごとく、昭和50年には、山梨県田辺国男知事から諮問を受け「山梨県ボランティアセンターの機能と構造」を答申した。さらに翌年には「山梨県ボランティアセンター建設基本計画の策定」を答申し、その基本計画に基づいて鉄筋コンクリート地上4階建ての山梨県ボランティアセンターが建設された。この建物は県庁所在地の甲府市でも中心地である甲府市丸の内に建設され、後にセンター前の通りは一般公募によりボランティア通りと命名され、このセンターが県民からいかに愛されているかを伝えている。
 この答申の中で、ボランティアセンターは公私共同の働きの場となることを提唱しているが、山梨県ボランティアセンターは、行政がその費用のほとんどを拠出しているが、建物の管理も含めボランティア協会がその運営の責任を負い、市民主体の運営委員会方式で運営されている。現在は、市民主体社会の実現が全国的に訴えられているが、山梨県ボランティアセンターでは昭和53年7月のセンター開館当初から実践されていたのである。
 昭和52年に、本法人はわが国の社会福祉向上のために尽くした功績に対し、「毎日社会福祉顕彰」を受賞した。
 
民間救助「富士寝台車センター」を開設(昭和53年)

 昭和53年度から現在に至るまで、今日の社会変化に対応する開拓的な実践活動として、高齢社会を迎えての[おとしより]や[寝たきり老人]、また、身体の不自由な人々や緊急を要しながらも、救急車の予約出動を要請できない難病患者等を移送するために民間救助寝台車センターを開設した。これはストレッチャーのまま乗ることのできる設備や車椅子で乗るためのリフトなどを装備した特殊自動車を整備し、在宅福祉中心の地域社会のニーズを解決するために開設したもので、デイケアやショートステイ利用の高齢者の送迎や、リハビリセンターへの障害者の送迎、あるいは知的障害児の学童保育への送迎など多面的に利用されている。
 
国際的なテーマについても活動を展開

 昭和59年からはインド・カルカッタのマザーテレサの修道会(ミッショナリーズ・オブ・チャリティ)が運営する施設でボランティア体験学習を行うツアーを企画し、平成13年度までに25回以上開催、参加者は延べ900名を超えた。世界で最も住環境が悪いといわれるインド・カルカッタのマザーテレサの施設等で、ボランティア活動を行いながら人間としての生き方を学ぶというこの研修は、参加した人々に大きな感動と勇気を与え、ボランティア活動の原点を垣間見ることができたという感想が多い。
 昭和61年度には当時社会的に大きな問題となっていた第二次世界大戦の爪痕でもある中国残留日本人孤児問題に取り組み61年9月と12月に続けて2回のウェルフェアショーを開催し、収益を中国残留孤児援護基金と中国帰国者の会へ寄付した。この活動は、単に寄付を行うということだけでなく、人々が戦争というものの悲惨さに気づき、また、帰国者のために、いかに地域が重要な役割を果たしていかなければならないかという意識を喚起させることに役立つことができた。
 平成の時代に入り、高度物質文明が中心となる社会の中で、地球環境や南北の格差の問題、宗教や民族、あるいは飢餓や自然災害など人間生活を行う上での問題は時代とともに変化しながらも消滅することはない。しかし、確実に進みつつある地球市民として地球全体が運命共同体であることへの自覚や、国境を超えた協力体制が求められることに間違いはない。
 平成2年6月には長年所在した新宿を離れ、本部の事務局と寝台車センターを統合してJR中央線国分寺駅前に事務所を転居した。入居した建物は30年以上も前に日本で初めてのボランティアスクールを試験的に開講した建物であり、21世紀を迎えるための準備として原点に返るという意味でもひとつのポイントであった。
 
21世紀は[愛の文明]へ

 平成4年度からは、法人の活動の目標を「愛の文明」の提唱とし、高齢や心身の障害、あるいは病を持ちながらも自らがリーダーとしてボランティア活動の牽引者となり地域において活躍する人や、地域の一隅で人知れず貴重な活動を継続している人、あるいはこれからボランティア活動へ取り組みをはじめようという一般市民などが相集い、平成9年度まで全国交流集会を開催した。
 平成7年1月17日、兵庫県を中心として大地震が起こり5000人を超える市民が亡くなるという大災害が発生した。戦後の地震災害としては最大のものとなったこの地震は阪神淡路大震災と呼ばれ、地震発生からの行政の対応は全く機能できず、被災者を含んだ一般市民の自助的な活動が自然に発生し大きな力を発揮した。
 延べ100万人を超えるボランティアが被災地を訪れたといわれているが、この年をマスコミは日本のボランティア元年と呼び、あらゆる行政機関がボランティア担当窓口を置き、テレビや新聞などでもボランティアと言う言葉を聞いたり見たりしない日はほとんどないといっていいほどボランティア活動が一般化した。
 おりから欧米型の市民運動のスタイルでもあるNPOが政治の世界でも議論されるようになり、平成10年度にはいよいよボランティア活動を行う組織が法的にも認知されることとなるNPO法(特定非営利活動推進法)が制定され、長年社会的認知を受けずに苦労を重ねてきたボランティア団体や、あるいは今まで全くボランティアとは縁のなかったような人々が、市民活動を行う組織を立ち上げるなど、大変なブームとなっている。平成19年度までにNPO法人は34,000法人を超える設立がなされた。
 
ボランティア大学開講

  昭和56年には国際連合が国際障害者年を提唱し、以降10年間にわたってノーマライゼーションの運動が展開された。また最近は地方自治体等行政や社会教育界で市民教育の重点目標としてボランティア活動を取り上げているが、その現状は十分とは言いがたく正しい社会福祉推進のための指導が必要とされている。
 国際障害者年をひとつのきっかけとして、長年運営していた正科ボランティアスクールを前向きに解消して形を変え、「ボランティア大学」を開講し、平成16年度までに46期を修了した。これは、「市民生活の中にボランタリズムを」という全体テーマのもとに、市民が各自の生活プログラムの中で、ボランタリズムを学ぶための学習の場として提供したもので、ボランティア活動推進の方向性に向かって指導的役割を果たしてきた。現在は休止中。
 
「ゼノ・かぎりなき愛に」のアニメーション映画製作(平成10年度完成)

 平成8年度からは、「ゼノさんの映画をつくる会」を結成し、長年の夢でもあったゼノ・ゼブロフスキー修道士の日本での生涯を、「ゼノ・かぎりなき愛に」という長編アニメーション映画として製作する活動をスタートした。
 映画製作費の捻出は、一般新聞などの報道の力を借りながら一般市民に協力を呼びかけた。約3年の歳月をかけ、3000名を超えるボランティアによる心のネットワークを結集し、資金協力は約1億8000万円を超え、映画は平成10年11月に完成した。35ミリビスタサイズ74分のフルアニメーションでスタッフは超一流であり、音楽も120人以上のフルオーケストラで録音するなど大変すばらしい仕上がりとなっている。
 平成11年5月には東京銀座の丸の内シャンゼリゼ劇場を皮切りに全国で一般公開をされ、一人でも多くの人々にゼノ修道士の姿からボランティア活動の原点を感じて欲しいと製作のスタッフは祈っており、鑑賞人数の目標は100万人である。
 
チャリティクラシックコンサートを開催

 2004年2月に、東京・文京シビック大ホールにおいてチャリティクラシックコンサートを開催した。日本自転車振興会から補助を受け、普段クラシック音楽コンサートに参加することが難しい高齢者などを招待して、午後、夜間の2回コンサートを開催した。
 ロシアの天才少年といわれているバイオリニストの14歳のサーシャ少年をソリストに迎え、新日本フィルハーモニーオーケストラによるコンサートは、参加者に感動を与えた。
 2008年2月には日本で有数のバイオリニストとして活躍中の川畠成道氏をソリストに迎え、在京4大オーケストラから選抜されたオーケストラによる演奏でコンサートが開催され、延べ約2500名の参加者を得た。
 
21世紀のボランティア活動は

21世紀の日本社会は国際社会における日本の位置付けや経済環境などの影響を受け様々な変化を迎えることが予想される。日本における市民社会も真に自立した市民によるまちづくりが求められるようになり、一人ひとりの社会に対する責任と役割は、益々大きなものとなり明確化していくであろう。
 平成12年度からは新しい社会保障の仕組みである介護保険がスタートしたが、在宅福祉の大きな柱として鳴り物入りで始まった介護保険の制度の中に、おそらく大きなひずみが生まれ、ボランティアの新たな役割が生まれていくことが予想される。
 本来自主自発的であるはずのボランティア活動が、行政や社会の仕組みの中で歯車のような位置付けになりつつあり、人間として、命の大切さを守るというボランティアの使命(ミッション)が見失われることがあってはならない。
 近年は行政と市民の協働が行政の政策課題として大きく取り上げられており、新しい公共という概念が注目されて、行政が公共を独占するという今までのスタイルが大きく変革しようとしている。
 市民は行政の単なる下請けではないパートナーとして、市民としての責任を自覚し、公共の担い手としてまちづくりに主体的に参画することが求められている。市民と行政における真のパートナーシップのあり方を提案し、高齢者や障がい者が差別されることのない、心豊かなまちづくりをミッションとして、さらに先駆的に活動に取り組んでいかなければならない。
 平成20年度はNPOを始めとする新しいかたちの市民活動のあり方を検証し、創造していく年である。私たち富士福祉事業団は、ボランタリズム運動の理念を高く掲げ、民間における草分け的な推進機関として今日に至っている。私たちは財政の困難と戦いながらも、その使命の重大さを益々認識し、若い世代への期待とともに転換期における新局面への開拓的なボランティア・スピリットを実践したく願うものである。